富山町石工とは?
このブログで「富山町石工」と呼んでいるのは、江戸時代、富山城下町に工房を経営していた石工のことをいいます。
石工銘には「富山」「富山住」「富城」と彫ります。城下町のうちどの町に工房があったかを知る資料は少なく、唯一「太田口」と表記する石仏がありました。現在太田口通りがありますが、飛騨街道と北陸街道の結節点にあたり、大通りです。店を出していたかもしれません。
江戸時代には、紹介した佐伯伝右衛門のほか、伝助、見上兵右衛門がいました。
伝助は、伝右衛門と同じ「伝」の名乗るので、一門か弟子かもしれません。滑川市坪川の一里塚の上の石碑を作りました。
見上兵右衛門は、三上とも名乗ります。石碑やお寺の宝篋印塔(ほうきょういんとう)を作つくりました。
富山町石工は15人がいました。石塔・石碑が多く、石仏を作ることは少なかったようです。
石材は常願寺川産の安山岩、神通川産の砂岩(猪谷石)などを主に使いました。
明治以降戦前までは、かなり増えて110人の石工がいました。明治大正には、桑原亀太郎(紹介すみ)・見上文五郎、大正昭和には田中仲太郎・村木孝之が代表的な石工でした。
町石工は城下町や宿場町などの町にいる石工、それ以外は在郷(ざいごう)石工と分類します。近傍の町石工には、町新庄石工・八尾町石工・滑川町石工などがいました。
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