石工たちの協力【共作】多数
石仏など小さいものは一人の石工、中型品では二人の共作、大畑賓となると複数の石工が協力して製作しました。
大型品の例をみてみましょう。
富山市月岡龍高寺の宝篋印塔(1797年)は、馬瀬口村とみられる石工4人の共作です。
富山市四方海禅寺の宝篋印塔(1816年)は、富山町石工5人の共作です。
高さ2.93mの立山町宮路導引地蔵(1843年)は、常願寺川石工4人の共作です。
石工銘は、石工の名前を縦書きで右から順に横並びに記します。一番右の名前の石工が立場が高い棟梁です。
龍高寺では、初兵衛が棟梁で、後に名石工となる中川甚右衛門は3番目です。
海禅寺では、佐伯伝右衛門が棟梁でした。
導引地蔵では、中川甚右衛門が棟梁で、あとの4人は常願寺川右岸左岸からバラバラに参集しています。甚右衛門の人選があったようです。地蔵様のお顔は、甚右衛門の要望の特徴を示しています。そこは一番大事なところですから、やはり棟梁流ということになるのでしょう。棟梁にはそのような権限があったのですね。
写真は立山町の導引地蔵様 右はふつうの大きさの石仏です。
YouTube動画もご覧ください。 https://youtu.be/y4bQu90mcH0
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