出張石工の話 その9

神通川に移転した石屋浅吉のルーツをたどってみましょう。少しの手がかりしかありませんが・・・


神通峡に出張製作した常願寺川石工には、これまで紹介したほかに、浅吉と同じ馬瀬口(ませぐち)村の浅右衛門がいました。

お気づきのことと思いますが、この浅右衛門は、浅吉と「浅」が共通していますね。

職人の世界では、親方の後継者や弟子などに、一字をとって名前を付けるということが一般に行われていたといいます。同じ村ですから、その可能性は高くなります。


浅右衛門の作は、文政12年(1829)年、後に浅吉が移ることになる布尻村に、笠付円盤形石仏があります。今は笠も基礎などもなく、本体だけが残っています。主尊は弘法大師様で、背もたれのある椅子に座っておられるお姿です。

浅右衛門は、のち田近浅右衛門の名乗ったと思われます。明治24年本拠地馬瀬口村の天満宮にある狛犬の石工銘に「田近浅右衛門 六十八歳」とあり、逆算すると生まれたのは文政7年(1824)となります。

まさか5歳で布尻の石仏を作るはずもないですから、先代の浅右衛門の作なのでしょう。

ということで、浅吉は、身内ならば田近家の一員で、家督相続をせず、外に出たことになります。弟子ならば独立した、ということになります。

浅吉は独立し、神通峡に本拠地を構えて製作に励みました。当地の古くからの伝統にとらわれず、馬瀬口村期に学んだ技術伝統を積極的に取り入れて、さらには飛騨にまで販路を拡大しました。甚右衛門のフロンティア精神も引き継いだのですね。

富山石文化研究所ブログ

富山の石文化について、最新情報や自分目線の解説を紹介します。 詳細はこちらへどうぞ   公式ホームページ http://tscl.jp/  YouTube  https://www.youtube.com/channel/UCCAxn9KGaCoF5RqXlqlD2nw

0コメント

  • 1000 / 1000