出張石工の話 その5
神通峡は、神通川上流の峡谷地形の事をいいます。上流の飛騨国(岐阜県)では二つに分かれ、神岡を通る「高原川」と、宮川を通る「宮川」に分かれます。いずれも飛騨街道(飛騨側では越中街道といいます)が分かれて通っています。
神通川石工の出張製作は、高原川沿いに及んでいきました。国境を越え飛騨国に足を延ばした石工が、ただ一人いました。
それは甚右衛門と同じ馬瀬口(ませぐち)村の浅吉です。
国境(県境)からすぐの飛騨横山村(現飛騨市神岡町横山)に、嘉永3年(1850)の墓石があります。安山岩製で、常願寺川の石の可能性もありますが、横山にある浅吉作とみられる墓石はすべて横山で採石できる猪谷石(砂岩)ですから、出張はここまで及んでいたことは確かです。また安山岩は高原川でも採石できます。常願寺川産とは厳密に識別できません。
墓石は、常願寺川石工が石仏で得意とする「笠付円盤形」というタイプに準じています。依頼した横山住民が富山とかかわりが深いためだったのか、浅吉が飛騨では珍しい越中型式を売り込んだためなのか、飛騨国では一般的ではない形の墓石なのです。
浅吉はそれ以前から神通峡に来ていた痕跡がありますから、請われてどんどん上流へ足を延ばしていったと思われます。
上野写真は飛騨横山の円盤形墓石、下はその主尊阿弥陀如来のお顔です。
浅吉の仏様の顔は、どことなく同じ村の甚右衛門に似ています。浅吉はおそらく甚右衛門のところで修業した弟子なのではないかと思っています。
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