出張石工の話 その4
神通峡に出張製作をした常願寺川石工は、清三郎に次いで、馬瀬口(ませぐち)村中川甚右衛門が進出しました。
甚右衛門は先に紹介させていただきましたが、フロンティア精神が旺盛な石工でした。
彼は清三郎より早くに、神通峡の入口にあたる「船峅」という地域に販路を広げていました。船峅には、古くから姉倉比売神社・帝龍寺があり、飛騨から立山へ参詣する信仰道沿いにありました。神通川の中流域にも彼の石仏は多数あります。出張製作はそのようなことがきっかけとなったのかもしれませんね。
甚右衛門の石仏(写真)は、東猪谷の宝樹寺のすぐ近くにあります。嘉永元年(1848)のもので、台座がなく石工銘があったかなかったかわかりませんが、地蔵様のお顔や彫り方は、間違いなく甚右衛門のものです。
甚右衛門の出張製作は、越中国にとどまりましたが、国境を越えて飛騨まで進出した猛者がいました。次回はそのお話です。
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