宝篋印塔の話 その3

宝篋印塔(ほうきょういんとう)という石塔の研究は、それほど進展しているとはいえません。墓石として盛んに作られた中世の宝篋印塔が、歴史考古学の研究の中心です。

富山では、江戸時代に入ると、墓石としての宝篋印塔の造立が下火となります。そして江戸中期、西暦1700年台後半になると、突然お寺の境内に次々と作られるようになります。この【復活】した宝篋印塔は、墓石ではなく、供養塔(くようとう)であり、多くの塔の内部にはお経または礫石経(れきせききょう 小石に経文を墨で描いたもの)を納めてあります。

中世のものより大きく、装飾が多くあり、同じ名称ですが、全くの別物といっていいでしょう。

今のところ、富山町石工・常願寺川石工の作った最初の【復活】宝篋印塔は、富山市月岡にある真言宗円城院様の塔です。円城院様は、もと真言宗龍高寺様(立派な宝篋印塔の事を紹介させていただきました)の塔頭(たっちゅう)でしたが、この地に来て山号をいただかれた古刹です。

寛延2年(1749)造立の塔で、高さ2.8m、装飾は質素シンプルです。周辺を支配していた富山藩十村(とむら 最高クラスの大庄屋)役の野口氏が寄進したものです。野口氏は自分の土地も寄進して、円城院様を当地に迎えられたのでした。

石塔に石工銘はないのですが、おそらく富山町石工佐伯伝右衛門勝行の作と思います。


円城院様の宝篋印塔の動画   https://youtu.be/8T6kylEuDXw

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