明治の石垣 その1
昨年兵隊像の由を知るためお訪ねした、富山市婦中町の長屋門の立派な民家には、外側に塀が巡っていました。
その基礎には1mに満たない石垣があり、玉石などをきれいに積んでいました。
石のほとんどは神通川河川敷で拾える青灰色の安山岩で、大きめの白い長石(ちょうせき)が目立ちます。考古学では「神通川石」と呼んでいるものです。
幕末頃から需要が増えていったようで、民家石垣、民家基壇、墓の基壇、石碑などに使われるようになりました。
この石垣では、やや平たい玉石のままの石をハの字状に積んで、最上段には大きめの割った玉石を横並びにしています。
ハの字状の石積みは「矢羽根積(やばねづみ)」や「ハ積(はづみ)」といい、明治頃に普及した積み方です。神通川沿いでよく見かけるもので、富山城でも明治期の土塁崩落防止の石垣設置にはこの方法が用いられています。
最上段の横並びの石は、玉石を半分に割った「割玉石」(わりたまいし)を並べるのですが、横の石どうしは丸いため不安定になりますから、片方または両方を石の形に合せて加工し、安定させています。造形美が醸し出されていますね。
このような神通川流域の特徴的な石垣は、崩れやすいためだんだん減っていき、コンクリートや切石積の石垣に代わってきています。石積みの技術伝統もほぼ消えてしまったようで、残念です。
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