常願寺川石工中川甚右衛門の代表作 その3
常願寺川石工中川甚右衛門の晩年の作となる宝篋印塔は、富山城下町の中にあります。
五番町の光厳寺の墓地にある中川家の墓石は、甚右衛門が安政3年(1855)に作った宝篋印塔です。
この墓石は、もともと馬瀬口村にあったもので、中川家の墓地の中央に置かれた供養のための宝篋印塔でした。中川家が市街地に移転する際、この宝篋印塔のみを持参し、墓石に用いたのだと思われます。
墓地の敷地内に宝篋印塔を置くといった形は、江戸時代、常願寺川周辺の有力者の家族墓にだけ見られる風習でした。富山藩・加賀藩で十村(とむら)と呼ばれた大庄屋クラスの家に多く見受けられました。
甚右衛門と同族(家紋が同じ)と思われる下番村の中川家は、由緒は不明ですが江戸時代には有力農家だったようです。この家族墓にも甚右衛門が製作した文政3年(1820)宝篋印塔が置かれています。甚右衛門はこれを手本として自分の家族墓にも宝篋印塔を置いたのではないかと考えています。自身が石工なのでた易かったでしょう。
安政3年 石工中川甚右衛門が製作した宝篋印塔
富山市上滝にある畔田家の墓地。畔田氏は打出へ転出し加賀藩十村になりました。とても広い墓地ですね。
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